お世話になった大切な人 001 松澤壽男(1928-1998)


お世話になった人、最初に挙げるのは父松澤壽男(寿男という表記もある)です。どの程度の記事になるかは情報源にもよります。今回は身内ということでかなり濃い内容となります。


松澤壽男(まつざわひさお)松沢寿男とも表記される。
昭和3年1月11日東京都出身血液型AB型
株式会社松澤企画創業者、元ラジオ関東運動部長・編成部長。

<少年時代>
開業医の松澤貞次郎の三男。暁星初等・中等学校に通いフランス語を学んだこともある。当時最先端メディアのラジオを好んで聴き番組で放送されていた落語に興味をもち親戚など大勢集まった中で落語を披露するほど口達者であった。鉄道好きでもありメルクリンの鉄道模型を所有。(空襲で焼けてしまったが架線から給電して走る本格的な鉄道模型とのことでOゲージと思われる)

<学生時代>
昭和20年の東京大空襲で東京の自宅が焼けてから別荘であった鎌倉市津(現在の腰越)に一家で疎開。長男の義人、次男の慶治ら3兄弟は藤沢で名を馳せていた大沢啓二と草野球をしていた。日本大学農獣医学部に入学、フジヤマのトビウオとして当時注目されていた同校の水泳選手の古橋廣之進
とも親交があり共に湘南海岸で遠泳した経験がある。

<ラジオ局時代>
大学卒業後民放初のラジオ局CBCに入社。東京支社勤務となり記者として活躍。当時流行した結核に感染、鎌倉の鈴木病院へ長期入院。同じく結核で入院していた橋爪英子と親しくなり交際を始める。昭和33年年末名古屋への転勤を拒み開局して間もないラジオ関東(現ラジオ日本)へ転職。スポーツ記者、ディレクターを経て運動部長となり放送局の中核として貢献した。野球中継は当時21時までであったところ次の番組のスポンサーを抱え込み試合終了まで放送するといった画期的な方法で視聴者を喜ばせた。東京オリンピックなどラジオ全盛期のスポーツ番組を陰で支えた。日本民放クラブの公式サイトに壽男が執筆したナイター中継にまつわる記事が転載されています。

平成10年5月関東民放クラブ会報44号に執筆(2009年日本民放クラブ掲載)
ラジオ関東ナイター中継 -今だから言えるあの時- (故・松澤 壽男)



昭和35年頃 中沢不二男氏と木島アナと

<転機>
編成部長も兼任すると音楽番組でも洋楽を積極的に流すAMラジオ局としてラジオ関東の一時代を築き上げたが、当時の社長遠山景久の命令により研修名目で部長以上の幹部社員は畑違いの現場研修を経験。壽男は富士通FACOMの研修に参加。同僚の中には自衛隊に体験入隊させられるなど40代半ばの中堅社員には過酷な研修が行われその多くは退職し同時期に開局したテレビ神奈川やその他の放送局に移った。壽男は妻英子の義理の兄(松浦友次郎)の経営する広告会社交通アドからかねてより誘いもあったことで昭和48年転職。


昭和51年1月 交通アド本社前にて

<交通アド・テレパック時代>
交通アドは義理の兄松浦友次郎の他、妻英子の姉弟らによる半ば家族経営ということで専務取締役という好待遇で迎えられたが広告業になじめずプロ野球選手王貞治を起用した農協のCMなどを制作するほか目立った活躍は見られなかった。テレパックという映像制作会社に転職して番組制作を支えたが京急上大岡駅前の渋滞中の鎌倉街道で反対車線より猛スピードで激突した自動車事故で体を壊し自宅療養を余儀なくされ2年ほどで退職。


昭和52年2月全農CM収録 王貞治選手と

<松澤企画創業>
昭和56年7月学友らを役員に加え株式会社松澤企画を創業。当初ホテルニュージャパンにオフィスを構えメディア関連の様々な業務を請け負うが昭和57年ホテルニュージャパンの火災により事務所閉鎖。その後自宅を拠点に元ラジオ関東の同僚だったテレビ神奈川制作部寒河江正の紹介によりテレビ神奈川の番組制作と関連事業を請け負い事業部社員の北条忠夫(のちの画家:北条楽只)と共に「住宅フェア、インポートバザール」などのイベントの運営など幅広く携わる。また古巣ラジオ関東の早朝の情報番組ディレクターを務める。プロ野球選手らによる野球指導者講習会の運営にも携わる。晩年は妻英子の経営する結婚相談業を支えたが平成9年12月前立腺がんが見つかり自宅療養する。平成10年8月に入院、平成10年11月14日午前8時32分永眠。享年70歳。



平成初期ラジオ日本少年野球中継で浅木アナと

人を楽しませることが好きでどんなところでも人の笑い声が絶えなかった。落語と野球と相撲好き。ラジオ関東時代は休日ともなれば社内野球チームでラジオ局対抗試合などで汗を流していた。好きな野球チームは巨人軍。特に長嶋茂雄と王貞治とはラジオ関東時代からの付き合いもあり思い入れは強かった。仕事柄多くの元プロ野球選手と交流があり壽男が地元
少年野球チームの監督になったときは山根俊英(大洋)や有本義明(ロッテ)を講師として招いて野球の指導を実施。ラジオ関東時代に相撲記者クラブに所属した縁で両国・回向院の力塚(亡くなった相撲力士を祀る碑)の傍に記者塚があり(松澤壽男・ラジオ関東)の文字が刻まれている。



昭和55年8月ふるさと人間記の取材・春日野親方と

プライベートでは昭和31年6月に橋爪英子と結婚。同僚には愛妻家として知られている。ナイター担当の時は天気予報だけではあてにならず現状を確認するために当時暮らしていた東久留米の妻へ電話して都心方面の雲行きを確認して雨で中止になった時の番組の変更準備をしていた。(高台の団地であったことで窓から都心方面が一望できた)昭和37年に長女美樹、昭和44年に長男芳和を授かる。松澤の家系で三男であったことと医者を継がなかったこと、明治生まれの父貞次郎の独善的な考えによる財産問題に悩まされ続けた。たばこはセブンスターを好んでお酒は一切飲まなかった。自動車免許はマイカーブームの40代になってから取得。運転はあまり好きではなかった。

<長男芳和から見る父壽男>
小さいころは叱られることはありましたが元々温厚な性格故に成長すると共に叱ることは少なかったです。鉄道好きなのは父譲りです。当時暮らしていた洋光台の4街区に少年野球チームが誕生したとき自ら率先してアドバイザーを兼ねて監督に就任(背番号91)。「リトルバイキングズ」と命名、ユニフォームを大好きな巨人軍のビジターと同じデザインにして球団歌の作詞まで担当(曲はリパブリック讃歌)日曜ともなれば少年野球の指導に夢中でした。誰よりも私の事を良く知り学生時代から社会人として駆け出しだった当時の悩める私に的確なアドバイスを与えてくれました。



昭和53年11月12日横浜大洋山根俊英コーチと少年野球監督時代の壽男

※Wikipediaのように加筆することもあります。


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